久々のフィローニ製アニメーション、「テイルズ・オブ・ジェダイ」が配信開始となりました!
今作はアソーカ・タノ、ドゥークー伯爵という全く異なる道を歩んだ2人の「ジェダイ」の知られざる6つの物語が、1話完結形式で描かれています。
恐るべきクオリティのアニメーション
私のディズニープラスの視聴環境は「4KHDR」なのですが、4K制作の「クローン・ウォーズ」最終章なんかを観てみると、「イマイチ4Kの恩恵は薄いよな…」と感じていたんですよね。
もちろん綺麗になってはいるのですが、まあHDでも十分だよなぁ、と。
ハッキリ言って、「スター・ウォーズ」のCGアニメの映像ってその…アレじゃないですか。(年々着実に進歩はしてますが)
なんか全体的に色がのっぺりしてたり、動きがカクカクしてたり…
それがこうなった‼︎
始まった途端ビックリしました。
実写よりも断然キレイじゃないか‼︎
空や木々の自然な色味、リアルな陰陽のコントラスト、上記の画像はHDですが、4K、そしてHDRのポテンシャルがフルに発揮され、とにかく映像が美しい‼︎
この緑ですよ。
一色ベタ塗りして若干汚し加えるような感じではなく、草一本一本が描き分けられているこの細かさ!
こんなキレイな映像のSWアニメが観られるとは‼︎
第6話の暗がりの水の反射なんかもかなりの精度でしたし、本当に今回の映像はクオリティが高い!
人間キャラクターのモーションも大幅に精度が上がっており、「不自然さ」を全く感じないレベルにまで到達。
ここまで一気にアニメーションのレベルが上がるとは!
「クローン・ウォーズ」や「反乱者たち」を完走した者として、感動せずにはいられませんでした。
久々の元気アソーカ
↑アソーカ・タノ、ポリコレの姿
「クローン・ウォーズ」と同時代の物語であるにも関わらず、どういう訳か衣装チェンジしているアソーカ・タノ。
あの けしからん格好はディズニーに許されなかったようです。
↑既婚者そこ変われ
今回の衣装ですが、前半衣装の色味とヘソ出し、後半衣装の腕の装飾といった両方の特徴を併せ持っており、制作陣としては「中間形態」を想定しているのではないかと思われます。
時代も自ずと絞られますね。
二の腕の装飾がありながら一刀流、「クローン・ウォーズ」では観られなかった組み合わせです。
二刀流時代のシーンでは後半バージョンの胸元に穴の空いた衣装が許されていましたから、旧作との連続性を守ることはOKだったようです。(一応穴から見える範囲は調整が入っていましたが、まあ良しとしましょう)
私は基本的にアニメシリーズを吹替で観ているのですが、今回は久しぶりに伊藤静氏の「元気なアソーカ」の声を聞けて嬉しかったですね。
「フォース・オブ・デスティニー」以来かな?
ここ最近、ジェダイ騎士団を去り落ち着いたトーンのアソーカばかりでしたから、実家のような安心感を覚えました。
やっぱりアソーカってあの元気な女の子ですよね!
アソーカのみならず、「クローン・ウォーズ」でお馴染みの面々も、新たにモデルが作り直されています。
…が、「クローン・ウォーズ」との連続性に配慮してなのか、中途半端に以前の残念な雰囲気が残っており、そこそこ再現度の上がった顔との噛み合わせがあまり良くないように感じられます。
「クローン・ウォーズ」ほぼそのままで行くか、実写基準で抜本的に作り変えるか、どちらかに振り切った方が良かったように思いますね。
2人の本当の目的は?
パドメの葬式を訪れていたアソーカ。
視力ヤバ過ぎオジサンには「彼女は友達だった」と話していましたが、あまりパドメとは接点の無いレックスと2人でナブーを訪れていた、彼がわざわざ機体から降りて待っていた、この事はどこか示唆的であるように感じられますね。
本当は「彼」を探していたのではないか?と。
ところで、アソーカとベイルが話していた一連のシーンですが、おそらく吹替版は誤訳していると思います。
吹替版ではベイルが
「君に出来ることはもう無い。全て終わった。」
と言っているのですが、これだとアソーカを戦いに誘う流れに繋がりません。
字幕では
「救えぬ命だった。母子ともに」
という文章となっており、吹き替えとは全く異なる意味に。
原文は
「There’s nothing you could have done. For either of them. 」
えっと…
これをどう訳しても吹替版の訳にはならないと思うのですが…
「either」の指す対象が分からなかったんですかね?
仕事として訳す人が全員SW好きとは限りませんし、ある程度は仕方ないと思いますが、ちょっとコレはダメですね。
まさかの傑作、ドゥークーの「光」「テイルズ・オブ・ジェダイ」を印象付ける大きな要素、それが「ドゥークーの前日譚」という一般層への訴求を1ミリも考えていないニッチ三部作。
正直なところ、実際に観るまでは「ジェダイはクソ」botと化したしょうもない話かと思っていたのですが、舐めていて本当に申し訳ありませんでした…
村の住人が結託して議員の息子を拐うという事件、「選挙で落とせば良いじゃん」と単純なクワイ=ガン坊や。
例え法に反した民であったとしても、義のある者を守るために剣を握る。
「法」ではなく「正義」のために動くというジェダイ本来の姿を、この時ドゥークー自身が見せる。
その一方で、怒りに身を任せて議員を殺めようとする「危うさ」を併せ持ち、未来の銀河で希望となるクワイ=ガン・ジンが2人を救う。
この時のドゥークー、確固たる信念を持って「悪き心を根から断とう」としていたのではなく、息子君とクワイ=ガンの静止で「我に帰る」、つまり「殺すのが正しき道」とは思っていないことが明確に示されることによって、ドゥークーがかつて本当に「ジェダイ」であったという事実を我々が認識することが出来る。
これはダース・ティラナスが生まれる前の物語なのだ、そのことを名実共に理解する完璧な導線として、この第2話が機能している。
クソ議員のことも「最初は善良だった」というエピソードを付け加えることにより、今後のドゥークーの行く末が案じられる他、同じく善良な若き息子君の未来にも一抹の不安を残す。
「これが根本的な解決になるとは思えない」、ドゥークーのこの言葉により、第2話は「善良な心が正義をもたらす」という単純な形を取ることなく幕を閉じる。
↑いかにもSWアニメな顔面、逆に安心する
生けるフォースを極め、死すらも超越することとなる弟子の「懸命さ」を見抜く、彼が「失われた者」として悔やまれる所以が、こうして明るみとなったのです。
そして第3話、のちに分離主義勢力の首都となるラクサスでの事件。
この時既に高まっていた共和国への不満に触れたドゥークー、その感情を「正しい」と評価しながら、やり方は「誤り」とハッキリ断じ、同胞殺しに新たな人生の道標を指し示す。
ジェダイの寛大な心、そして懸命な思考が、まだこの時の彼にはあった。
そして「法」は「正義」ではないことを決して忘れず、そのことを忘れかけた同胞に不信感を募らせる。
アナキン・スカイウォーカーが抱いたジェダイ不信は、どこか快楽的で衝動的、自己中心的な部分が拭いきれなかった。
ドゥークーが抱くそれの源は利他の心、見返りを求めぬ無償の愛、頭で考えた結果の理知的なモノ。
それゆえに問題の根深さを理解し、銀河を根本からひっくり返そうとする悪魔に「希望」を見出してしまった。
同じようにシディアスの手に堕ちた2人であっても、全く異なる道を歩んでいた、それでも行き着く先は同じであったのだ。
そして第4話、
「クローン・ウォーズ」シーズン6第12話において、ヨーダが「平穏な世界」のビジョンで観ていた木。
ドゥークーが裏切らず、クワイ=ガンらも戦いの犠牲となることはなかった理想の世界に、この木はあった。
彼が気に入っている場所、よく来ていた場所だったのでしょう。
弟子のドゥークーにとっても、そのまた弟子のクワイ=ガンにとっても、それは思い出の木であった。
ドゥークーにとって師との、弟子との思い出が詰まったこの場所が、彼が「ジェダイ」として訪れた最後の場所となったのだ。
クワイ=ガンの話を信じず、結果的に彼を失う結果となったことを心から悔いていたヤドル。
ドゥークーの愚行が彼の「善性」によるものであることを見抜き、「赦す」心を最後の瞬間まで持ち続けた「ジェダイのあるべき姿」そのものを、ティラナスは自らの刃で切り裂いた。
「ジェダイのあるべき姿」を目指し、法ではなく正義を信じようとした彼は、自らジェダイの道を断ち切ってしまったのだ。
地味に「ヤドルがクワイ=ガンの葬式に来ていない」ことの裏事情を補完しつつ、「ジェダイ」の物語、ドゥークーの物語の1ページとして、これ以上ない完成度となっている。
レジェンズにおけるヤドルの英雄的な死とは全く異なるものであったが、ヤドルの「ジェダイ」としての威厳が存分に発揮された素晴らしい内容であったように思う。
この後ドゥークーは故郷のセレノーへと戻り、「伯爵」の地位を得て分離主義勢力を率いることとなる。
豪勢な服装、立派な屋敷、民には殺し合いをさせ、目障りな相手には軍隊を差し向ける…
金、地位、名誉、力を手にした「失われし者」は、「悪しき心は根から絶たねばならない」と激しく憎んだ存在そのものへと成り下がってしまった。
この物語は、「元老院に付き従うジェダイの姿」を決して肯定しない。
しかし、「ジェダイ」に対しては全面的な支持を与える。
安易なジェダイ批判の一歩先を行く、「ジェダイ」の物語の究極型がここに現れたと言えよう。
2人の失われし者
今回主人公に選ばれたアソーカとドゥークー、一見無関係に見える2人だが、どちらも「ジェダイ騎士団を去った者」という共通点がある。
「ジェダイ騎士団への失望」という引き金も共通している。
それでも2人の進んだ道は、全く反対のものであった。
何が2人を分けたのか?
それはジェダイ騎士団から「去った」のか、「逃げた」のかということではないだろうか?
ドゥークーは自らの正義の実現を「外」に求めた。
相手がシスの暗黒卿であると分かっていながら、元老院の権力と相対することが出来る者に頼った。
自分の力ではなく、シディアスの力に縋った。
そして罪を重ね、その落とし前を付けるチャンスを与えられながらも、自らの罪を認めることを、自分のせいで弟子が死んだという事実を受け入れることを恐れ、ヤドルの手を払い退けた。
真のジェダイによる救いの手から、彼は逃げたのだ。
自分の力で正義を為すことから逃げたのだ。
アソーカ・タノ。
彼女はジェダイ騎士団の正義を信じられなくなり、確固たる意志を持って聖堂を「去った」。
アナキンやヨーダに何と言われようと、ハッキリと復帰を断った。
それでも正義を為すことをやめようとはせず、オバダイアやマンダロアで勇敢に戦った。
「テイルズ・オブ・ジェダイ」第6話の紹介文にはこうある。
「自分はジェダイ以外の者にはなれないという事実に元ジェダイが直面する」
アソーカにはあのまま尋問官から逃げ続けるという選択肢もあった。
それでも彼女は、「戦う」ことを選んだ。
自ら正義を為し続けることを選んだ。
「マンダロリアン」シーズン2第5話のタイトル、「ジェダイ」
彼女はもうジェダイでは無いはず、「反乱者たち」の視聴者は誰もがそう思ったであろう。
確かにベイダーと相対したアソーカは、彼に「復讐」しようとしていた。
しかしそれは一時の迷い。「悪しき心は根から絶たねばならない」と同じ、感情に身を任せた言葉。
正義を為す者、ジェダイとしての彼女の言葉、それが「もうあなたを置いてはいかない。今度こそ」というものなのではないか?
「もうジェダイじゃない」という名言を残した者に「ジェダイ」というタイトルを与えたデイブ・フィローニ、このシリーズはその1つの答えを示したのではないか?
そう私は感じた。
「ジェダイ」の肩書きは、騎士団に属するものに与えられるものではない。
「ジェダイ」、それは慈悲と知恵、強さとフォースで正義を為す者の名前なのだ。
「テイルズ・オブ・ジェダイ」は、「ジェダイ」としての道を歩む者、かつて「ジェダイ」であった者の物語なのである。
↑南無阿弥陀仏